SARAVAH東京「SHOW CACE vol.64」



SARAVAH東京のオープンマイク「SHOW CACE vol.64」に出演。


「Nuovo Cinemime Paradiso」の宣伝と、ライブに向け、実験的な作品を試す場との位置付け。


結果は、


ハプニングにより演目が中断

そのロスのせいで、持ち時間10分で終わるはずが終われずに尻切れ

と、実験としてはこの結果から何を得ればよいのかと頭を抱えるものとなってしまったが、少ない可能性ながらそういうことも起こりうるのだと、納得させる。


人が行き来するようなストリートや大型展示会ではトラブルはある程度想定する。

けど、今回はライブハウスの中という、自ら足を運んだ人だけの空間だ。
それでもトラブルはやっぱり起こるということを、少し忘れていたかもしれない。
ライブ当日の体制に穴はないか、再度確認しなくては。


オープンマイクは色々なパフォーマーが出演する。やはり音楽がメインだが、SARAVAH東京ではシャンソン、クラシックなどが混ざり幅広い。そして今回は、朗読、パントマイム、映像、ダンス、そしてシネマイムと、多様なパフォーマンスが繰り広げられた。

こういった色々なものを一度に見る機会は少し大きな視点を与えてくれる。それは「ステージパフォーマンス」という大きなくくりからの視点。
好み云々では語れない、人目を引き注視させ続けるパフォーマンスとは、どういう身体がステージにある様をいうのか。と考えさせられる。今、「Nuovo Cinemime Paradiso」という一つの作品をつくっている。その過程で迷いメンバーを振り回してしまわないため、寄り道しないため、そういうことを忘れ流されてしまうことのないようにしなくてはならない。


帰り道、メンバーの気分が高揚している。トラブルへの処理をそれぞれの中でしている。

いつもより酒を多く飲み、感情に任せてしゃべり、ラーメンを食べて帰る。一人になったらまた今夜のことを振り返る。振り返ってしまう。
イベントはまだ未消化で続いているのだ。
そんな終わり方も、たまにはいいと思った。

風邪をひく




風邪をひく。
足を痛める。
腰痛も少し悪化した。

季節の変わり目とはいえ、立て続けにこうも見舞われるとくさくさとしてくる。確実に歳を取ってきている。風邪の治りも遅い。そんな自分の身体に苛立ちも覚える。
このところ連日の雨でストレス解消に最高だった自転車トレーニングも出来ず、次第に身体もたるみ、醜くなり、そんな自分にまた苛立つ。

自分の周囲には、風邪をひこうが、怪我をしようが、睡眠不足だろうが、動き続ける人が幾人かいる。
それはバイタリティに溢れているようで、一時うらやましくもあった。
現に二十代の頃はそこにあこがれ、真似て動き続けることで、自分を満足させるように仕向けていたように思う。
そんなごっこ遊びが誤りだと突き付けられたのが、ある俳優訓練の場に参加するようになってからだ。

そこでは自分がいかに嘘を付いてきたかをこんこんと指摘され、どんなに身体の声に耳を貸さなかったかを、教え込まれた。
3年ほど通ったのち、ようやく身体が語っていることに気が付いてきた。
自分の身体はとてもわがままなものだった。でもそれは、ただ自然に反応しているだけなのだ。負荷がかかれば悲鳴を上げる。気持ちよければゆるむ。当然のことだ。
そういうことを黙殺し、おのれの気持ち良さ、自意識のために身体を使っていたら、無視し続けたら、そのうち声を上げなくなるのは当たり前なのだ。

今の身体は語ってくれる。少しは自分にもその声が聞こえるようになった。
具合の悪さに振り回され過ぎな気もするけど、未熟な自分ではそれを黙殺していたら演技なんて出来ない。また嘘で塗り固めることになってしまう。

でもきっと、世の中のハードワークでも素晴らしい作品を作り続ける人たちのように、身体の声も聞いて、しかしストイックにコントロールもしてという方法もあるのだろう。
40歳まであと数年と迫った今、ありがたいことに多忙な毎日がある。
これは、そのトップランナーたちの身体との向き合い方に近づけるように努めることのできるチャンスかもしれない。

今度は真似事ではない。
唯一無二の自分の身体の声を黙殺せず、耳を傾けて、そのコントロールの仕方を模索していく。

ひろう



稽古開始から3週間
残り152時間

第2部の場面づくりが進んでいく。

これまで、シネマイム作品をいくつも共に作ってきたメンバーだけど、芝居要素も含む第2部の稽古は新鮮だ。
台本にないことが次々に生まれ、選別され、付け加えられる。
特に、今年の新メンバーのshocoと小林がやはり刺激的だ。


演出を聞くとき、shocoの眉毛はだいたい「ヘの字」を描く。
腑に落ちず、考えて込んでいるような顔。しかし、いざシーンを始めてみると、そのヘの字は消え、思い切りよく演技プランを持ち出してくる。
悩んでることが、演技を出すことの妨げにならない。
悩む自分なんて舞台上の物語には全く関係がないといわんばかり。
でも、shocoは悩むのが嫌いなわけではなく。
フライヤーの製作なんかでも、うんうん唸っていた。こんなにも悩むことが好きな人なのに、それが演技と切り離されている様はすがすがしく、演出も、躊躇なく、窺うことなく付けていける。


小林はうるさい。
最近テンナインに参加したばかりで日が浅いため、なかなかの頻度でダメ出しを受ける。そうすると口をとがらせてさも不満そうな顔になる。
でもその不満の矛先はなにかおかしい。
当然、さっきまで演じていた自分に向いているのだけど、それは今の自分とはとっても別人のようだ。
あくまで『さっきまでの自分』だ。今の自分ではない。だから、そいつに遠慮なく不満をたれる。そして次の自分にそれを引きずることはしない。
刹那的に生きるっていうのはこういうことを言うのだ。きっとそういう意味じゃないけど、これはこれで刹那的なのだ。



新しい人との製作は新鮮で発見が多い。
この見つけたものを見落とさず拾い上げ、手当たり次第、作品に投げつけていこう。
最後に何が残るかは分からないけど、きっと今はそれでいい。