十一月が始まった。
木枯らしも吹き、冬の予感が沸く。
単独ライブまでは一ヶ月を切ったところだ。
チケットが売り切れていない以上、プロモーションは続く。

初めての試みとなった映画館パフォーマンスは、うまくはいかなかった。
通りすがりの人の足を止めることがこれほど難しいのかと思い知らされる。
イベントに参加していれば、そのイベントを楽しむために来る人たちに出会える。
しかし路上ではそうはいかない。
道を歩く人は、それぞれに目的地があって、我々のいる映画館前は通り道だ。当然、歩き過ぎていく。
その足を、我々は止めなくてはならない。

初回、10月18日。
パフォーマンスが終わり、少し途方に暮れた。
どうすれば立ち止まってくれるのか、肝心のパフォーマンスを見てもらうに至るまでの戦術がすぐに必要だった。次のパフォーマンスは一週間後の10月24日。それまでになにかを決めてせめて試す場としなければ。
月曜日、メンバーに初回を終えての感想を募る、出来上がってきた一覧を見たが何も浮かんでこない。
火曜日、何も浮かばない。
水曜日、足りない部品を買いにホームセンターへ。ホームセンターをうろうろしているうちになにか閃くのはよくある、少し期待。しかし期待は外れる。2時間ホームセンター内をうろうろしたが閃きは来ず。
木曜日、稽古。再びメンバーの感想一覧を見る。少しひっかかるものが出てきた。路上を行く人たちは孤独なのだ。目的はばらばらで、同じ道を歩いているからといって連帯感が生まれているわけもなく。その人たちを一同に集めるということ自体、無理があるのではないか。ならいっそ、ひとりひとりをターゲットにしたらどうか。
金曜日、昨日巡らせた考えが残っている。こういうアイデアは大事にしたい。もう少しだ。こういうときは先人に学ぶのがいい。今まで見てきたパントマイミスト、大道芸人を思い出してみる。大道芸ワールドカップで多くの観衆を集めていた素晴らしい人たち。でもなにか違う。もっと小規模な、ブースで囲わないと面白くならないシネマイムにふさわしいもっと近距離の。
ふと、どこかで見たウォーキングアクトを思い出した。だだっ広い公園を闊歩し道行く人に絡んでは笑わせる。あれだ、ああいうのに近いはずだ。個人に絡んでいくスタイル。個人のための映画、シネマイム。
そうか、プライベートシアターだ。

ここからは事務作業。ブースの構成を再考して、貼り紙の内容を作り、全体の流れをメンバーに周知して。修正して。昨日の今日で大がかりな変更は出来ないが、道行く人へのアプローチの仕方はガラリと変わった。

そして結果は、悪くなかった。
充実感も前回とは比較にならない。そしてなにより、少し安堵した。
しかし、チケットが売れることはなかった。


そして11月1日の高円寺フェス。
早稲田とはうってかわって、大勢のお客さんに観てもらえた。
イベントに来ている人と、どこかへ向かっている人はやはりとてつもなく違うものだった。
それでもチケットの即売には至らず。
チラシを受け取ってくれた方々に興味を持ってもらえたら、とすがるように思う。


知名度がない我々がライブのチケットを売るためには、露出を多くしていくしかない。
地道な宣伝活動がいつか叶うと信じろと自分に言い聞かす。
でも人にお金を払わせるという行為は本当に難しく。モノがない以上対価を補償することもできず。
せめて面白いものをと、稽古をして、宣伝をして、稽古をして、宣伝をして、その繰り返しで。

自分自身も、そしていろいろな人の力を借りて作り上げたものが、評価される土台にすらきちんと上がれないことは悲しいことだ。
でも、それも評価の一端であって、そこから始めなければならない。

本番まで一ヶ月を切った。稽古も宣伝も厳しさを増していく。頭の中は常にライブのことでいっぱいになる。余裕はない。
本当の正念場はここからだ。


10/14情報解禁。
早稲田松竹映画館前をお借りしてパフォーマンスをさせてもらえることになった。
先日の結婚式二次会に続き、映画館でのパフォーマンスという夢が叶うことになる。
しかし、続かなければ意味はない。
この夢が、国内の各地の映画祭、そして海外の映画祭へと続いていけたらと欲は尽きない。


実は、東京に来るまで、映画はあまり見なかった。
東京に来て、映画館が近くにある状況になり、なにかピンと来た映画に出会えば、映画館に足を運ぶくらいになった。
しかし受け身なのは変わらなかった。
シネマイムを始めたときもその趣向は変わらずで、ジブリやバック・トゥ・ザ・フューチャー、ジャッキー・チェン監督作品、是枝裕和監督作品、ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品と、ミーハーだし、偏っていたと思う。
今もその傾向はあるけど、シネマイムを作る度に映画を必ず一本見る。シリーズものなら前後を把握するために数本見ることになる。するとその俳優や監督に興味をもつ。
そのうちに、なにか疲れたとき、空いている映画館に行って、ビールを片手にぼーっと見る楽しみも知ってしまった。
以前、大きな台風で電車が止まったときなんかは、喜々として、電車が動くまでと連続で映画を見た。


こうしてハマるタイミングというのが人にはあると思う。
それだけの魅力が映画館にはある。
それまで興味が薄くても、なにかのキッカケで足を運ぶようになり、人生の楽しみとして映画が使われる日が来るかもしれない。
そんな人を映画館は気長に待っている。
そのキッカケが「テンナインがシネマイムをガヤガヤやっているのに足を止めて」だったらどんなに嬉しいことかと、想像が膨らんでしまう。


今、「映画は好き?」と聞かれたら「好き」と答える。
語るほど詳しくもないし、俳優の顔を覚えるのも苦手だけど、好きは好きだ。

映画好きの一人として、映画館前で映画にまつわるパフォーマンスをできる。
幸せなことだ。とても。
長く続けられるように、努めようと思う。

次の日曜、いよいよ初パフォーマンス。
もうすぐ本番まで一ヶ月を切る。
これから照明や音響も含めた演出が必要になってくる。
キャストと違ってスタッフは稽古場に毎回いるわけではない。
限られた日にやってきて、ごく限られた打ち合わせで作り上げなければならない。それが、人を雇い仕事を依頼するということで。
しかし、作品づくりも、稽古の練度も、まだまだ五里霧中なわけで。

「間に合わないかもしれない」

という不安がいよいよ現実味を帯びてくる。

やっと確保した時間を使って机に向かっても閃きはやってこず、
酒を飲んでも気分は晴れず、
日課で気分転換に最適なトレーニングも満足に出来ず。

何をしていても作品にも演出にも自信が持てなくなってくる。
振り返ることが多くなり、時間を取られ、ますます進めなくなる。
ひどい悪循環だ。

一度、まっさらにしたい衝動に駆られる。

作ったときに感じていた面白みはどこへ行ったのか・・・


忘れることは素晴らしいことだと思う。
人を、故郷を、失敗を、成功を。
固執して身動きがとれなくなるよりははるかにいい。
ただそれは、動いていればこそ。
止まってしまったとき、忘れ続けていると、いずれ何もなくなってしまう。
供給を断たれ、すがる過去も経験もない。
ただ、生きるに必要な行動を繰り返す。
それが悪だとは思わない。
でも、自分は嫌だ。

減り続ける時間、その貴重な時間を確保し使っても解決しない。
必要なのはなんなのか。気分転換も試行錯誤もしてきた。
でも、考え続けることでしか閃きは訪れないのも知っている。
たぶん、今は苦しい時というだけなんだろう。

何も生めなくても、頭を使い続けるしかない。
今日も机に向かう。


SARAVAH東京のオープンマイク「SHOW CACE vol.64」に出演。


「Nuovo Cinemime Paradiso」の宣伝と、ライブに向け、実験的な作品を試す場との位置付け。


結果は、


ハプニングにより演目が中断

そのロスのせいで、持ち時間10分で終わるはずが終われずに尻切れ

と、実験としてはこの結果から何を得ればよいのかと頭を抱えるものとなってしまったが、少ない可能性ながらそういうことも起こりうるのだと、納得させる。


人が行き来するようなストリートや大型展示会ではトラブルはある程度想定する。

けど、今回はライブハウスの中という、自ら足を運んだ人だけの空間だ。
それでもトラブルはやっぱり起こるということを、少し忘れていたかもしれない。
ライブ当日の体制に穴はないか、再度確認しなくては。


オープンマイクは色々なパフォーマーが出演する。やはり音楽がメインだが、SARAVAH東京ではシャンソン、クラシックなどが混ざり幅広い。そして今回は、朗読、パントマイム、映像、ダンス、そしてシネマイムと、多様なパフォーマンスが繰り広げられた。

こういった色々なものを一度に見る機会は少し大きな視点を与えてくれる。それは「ステージパフォーマンス」という大きなくくりからの視点。
好み云々では語れない、人目を引き注視させ続けるパフォーマンスとは、どういう身体がステージにある様をいうのか。と考えさせられる。今、「Nuovo Cinemime Paradiso」という一つの作品をつくっている。その過程で迷いメンバーを振り回してしまわないため、寄り道しないため、そういうことを忘れ流されてしまうことのないようにしなくてはならない。


帰り道、メンバーの気分が高揚している。トラブルへの処理をそれぞれの中でしている。

いつもより酒を多く飲み、感情に任せてしゃべり、ラーメンを食べて帰る。一人になったらまた今夜のことを振り返る。振り返ってしまう。
イベントはまだ未消化で続いているのだ。
そんな終わり方も、たまにはいいと思った。



風邪をひく。
足を痛める。
腰痛も少し悪化した。

季節の変わり目とはいえ、立て続けにこうも見舞われるとくさくさとしてくる。確実に歳を取ってきている。風邪の治りも遅い。そんな自分の身体に苛立ちも覚える。
このところ連日の雨でストレス解消に最高だった自転車トレーニングも出来ず、次第に身体もたるみ、醜くなり、そんな自分にまた苛立つ。

自分の周囲には、風邪をひこうが、怪我をしようが、睡眠不足だろうが、動き続ける人が幾人かいる。
それはバイタリティに溢れているようで、一時うらやましくもあった。
現に二十代の頃はそこにあこがれ、真似て動き続けることで、自分を満足させるように仕向けていたように思う。
そんなごっこ遊びが誤りだと突き付けられたのが、ある俳優訓練の場に参加するようになってからだ。

そこでは自分がいかに嘘を付いてきたかをこんこんと指摘され、どんなに身体の声に耳を貸さなかったかを、教え込まれた。
3年ほど通ったのち、ようやく身体が語っていることに気が付いてきた。
自分の身体はとてもわがままなものだった。でもそれは、ただ自然に反応しているだけなのだ。負荷がかかれば悲鳴を上げる。気持ちよければゆるむ。当然のことだ。
そういうことを黙殺し、おのれの気持ち良さ、自意識のために身体を使っていたら、無視し続けたら、そのうち声を上げなくなるのは当たり前なのだ。

今の身体は語ってくれる。少しは自分にもその声が聞こえるようになった。
具合の悪さに振り回され過ぎな気もするけど、未熟な自分ではそれを黙殺していたら演技なんて出来ない。また嘘で塗り固めることになってしまう。

でもきっと、世の中のハードワークでも素晴らしい作品を作り続ける人たちのように、身体の声も聞いて、しかしストイックにコントロールもしてという方法もあるのだろう。
40歳まであと数年と迫った今、ありがたいことに多忙な毎日がある。
これは、そのトップランナーたちの身体との向き合い方に近づけるように努めることのできるチャンスかもしれない。

今度は真似事ではない。
唯一無二の自分の身体の声を黙殺せず、耳を傾けて、そのコントロールの仕方を模索していく。


稽古開始から3週間
残り152時間

第2部の場面づくりが進んでいく。

これまで、シネマイム作品をいくつも共に作ってきたメンバーだけど、芝居要素も含む第2部の稽古は新鮮だ。
台本にないことが次々に生まれ、選別され、付け加えられる。
特に、今年の新メンバーのshocoと小林がやはり刺激的だ。


演出を聞くとき、shocoの眉毛はだいたい「ヘの字」を描く。
腑に落ちず、考えて込んでいるような顔。しかし、いざシーンを始めてみると、そのヘの字は消え、思い切りよく演技プランを持ち出してくる。
悩んでることが、演技を出すことの妨げにならない。
悩む自分なんて舞台上の物語には全く関係がないといわんばかり。
でも、shocoは悩むのが嫌いなわけではなく。
フライヤーの製作なんかでも、うんうん唸っていた。こんなにも悩むことが好きな人なのに、それが演技と切り離されている様はすがすがしく、演出も、躊躇なく、窺うことなく付けていける。


小林はうるさい。
最近テンナインに参加したばかりで日が浅いため、なかなかの頻度でダメ出しを受ける。そうすると口をとがらせてさも不満そうな顔になる。
でもその不満の矛先はなにかおかしい。
当然、さっきまで演じていた自分に向いているのだけど、それは今の自分とはとっても別人のようだ。
あくまで『さっきまでの自分』だ。今の自分ではない。だから、そいつに遠慮なく不満をたれる。そして次の自分にそれを引きずることはしない。
刹那的に生きるっていうのはこういうことを言うのだ。きっとそういう意味じゃないけど、これはこれで刹那的なのだ。



新しい人との製作は新鮮で発見が多い。
この見つけたものを見落とさず拾い上げ、手当たり次第、作品に投げつけていこう。
最後に何が残るかは分からないけど、きっと今はそれでいい。


数回の稽古が済んだ。


五ノ井は九月中旬に他の公演を控え、これからしばらくこちらの稽古は休みになる。
集団での稽古は機能的ではなく、全員揃っていても、状況によってろくに稽古が出来ない人が出てしまうこともあれば、一人欠けることで稽古の進捗に大きな影響が及ぶこともある。
全員が稽古をしたと充実感を得る回はそうそう無い。
プランをうまく立てられればよいけど、予想どおりいくことはまれで、最近はその日にプラン考えてもっていき、さらに現場で変更するような流れを取っている。一番新しい状況に応じたものが最適と思う。


何度かの稽古を終えて、皆の中に舞台俳優とシネマイムパフォーマーとの二つの回路を使うことへの戸惑いが見えてきた。

ひとつのシーンの中で、二つのスイッチの切り替え、ときには両方を同時に入れる、と目まぐるしく変えていかなければならない。舞台上に出て人の目に触れているのだけど、映画におけるカット割りのように、カメラを向けられた瞬間とそうでない瞬間を切り替えていく。新鮮な感覚だろうと思う。
この感覚に志村がいつもとは違う反応を示している。
いつもはじっくりタイプで稽古がはじまって二週間目くらいになぜか劇的な変化を遂げるというシステムをもつ彼が、今回にかぎっては稽古中にどんどん変わっていく。ダメ出しをするとすぐに「ああ!」と何かに気付き、失敗しても自らそのことに気付きまた「ああ!」と叫ぶ志村。テイクを重ねるにつれ変わっていく様は、どんどんリテイクさせたくなってしまう。そうすると稽古が長びくので我慢するけど。
そんな誰かの掴みが皆に作用して、また新しい掴みが生まれていけば。


一方、制作面では、フライヤーの準備が佳境を迎えている。
宣伝美術担当のshocoが頭の中でアイデアと戦いながら、ウンウン唸りながら、絵を描いている。
当初の発想が良く、スタートは順調に見えたけど、ここにきて暴れ出した。
しかし「いいの作ります!」と言い切っていたshocoは頼もしかったから、きっと大丈夫だろう。
先の志村もそうだけど、戦う姿勢が見られている時は進んでいるとき。
止まってしまわないように、ちょっとづつカベを用意したい。
そして〆切というのは等しく残酷だ。がんばって欲しい。



八月が終わり九月が始まる。
残りの稽古時間は200時間を既に切っている。