もうすぐ本番まで一ヶ月を切る。
これから照明や音響も含めた演出が必要になってくる。
キャストと違ってスタッフは稽古場に毎回いるわけではない。
限られた日にやってきて、ごく限られた打ち合わせで作り上げなければならない。それが、人を雇い仕事を依頼するということで。
しかし、作品づくりも、稽古の練度も、まだまだ五里霧中なわけで。
「間に合わないかもしれない」
という不安がいよいよ現実味を帯びてくる。
やっと確保した時間を使って机に向かっても閃きはやってこず、
酒を飲んでも気分は晴れず、
日課で気分転換に最適なトレーニングも満足に出来ず。
何をしていても作品にも演出にも自信が持てなくなってくる。
振り返ることが多くなり、時間を取られ、ますます進めなくなる。
ひどい悪循環だ。
一度、まっさらにしたい衝動に駆られる。
作ったときに感じていた面白みはどこへ行ったのか・・・
忘れることは素晴らしいことだと思う。
人を、故郷を、失敗を、成功を。
固執して身動きがとれなくなるよりははるかにいい。
ただそれは、動いていればこそ。
止まってしまったとき、忘れ続けていると、いずれ何もなくなってしまう。
供給を断たれ、すがる過去も経験もない。
ただ、生きるに必要な行動を繰り返す。
それが悪だとは思わない。
でも、自分は嫌だ。
減り続ける時間、その貴重な時間を確保し使っても解決しない。
必要なのはなんなのか。気分転換も試行錯誤もしてきた。
でも、考え続けることでしか閃きは訪れないのも知っている。
たぶん、今は苦しい時というだけなんだろう。
何も生めなくても、頭を使い続けるしかない。
今日も机に向かう。
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SARAVAH東京のオープンマイク「SHOW CACE vol.64」に出演。
「Nuovo Cinemime Paradiso」の宣伝と、ライブに向け、実験的な作品を試す場との位置付け。
結果は、
ハプニングにより演目が中断
そのロスのせいで、持ち時間10分で終わるはずが終われずに尻切れ
と、実験としてはこの結果から何を得ればよいのかと頭を抱えるものとなってしまったが、少ない可能性ながらそういうことも起こりうるのだと、納得させる。
人が行き来するようなストリートや大型展示会ではトラブルはある程度想定する。
けど、今回はライブハウスの中という、自ら足を運んだ人だけの空間だ。
それでもトラブルはやっぱり起こるということを、少し忘れていたかもしれない。
ライブ当日の体制に穴はないか、再度確認しなくては。
オープンマイクは色々なパフォーマーが出演する。やはり音楽がメインだが、SARAVAH東京ではシャンソン、クラシックなどが混ざり幅広い。そして今回は、朗読、パントマイム、映像、ダンス、そしてシネマイムと、多様なパフォーマンスが繰り広げられた。
こういった色々なものを一度に見る機会は少し大きな視点を与えてくれる。それは「ステージパフォーマンス」という大きなくくりからの視点。
好み云々では語れない、人目を引き注視させ続けるパフォーマンスとは、どういう身体がステージにある様をいうのか。と考えさせられる。今、「Nuovo Cinemime Paradiso」という一つの作品をつくっている。その過程で迷いメンバーを振り回してしまわないため、寄り道しないため、そういうことを忘れ流されてしまうことのないようにしなくてはならない。
帰り道、メンバーの気分が高揚している。トラブルへの処理をそれぞれの中でしている。
いつもより酒を多く飲み、感情に任せてしゃべり、ラーメンを食べて帰る。一人になったらまた今夜のことを振り返る。振り返ってしまう。
イベントはまだ未消化で続いているのだ。
そんな終わり方も、たまにはいいと思った。
風邪をひく。
足を痛める。
腰痛も少し悪化した。
季節の変わり目とはいえ、立て続けにこうも見舞われるとくさくさとしてくる。確実に歳を取ってきている。風邪の治りも遅い。そんな自分の身体に苛立ちも覚える。
このところ連日の雨でストレス解消に最高だった自転車トレーニングも出来ず、次第に身体もたるみ、醜くなり、そんな自分にまた苛立つ。
自分の周囲には、風邪をひこうが、怪我をしようが、睡眠不足だろうが、動き続ける人が幾人かいる。
それはバイタリティに溢れているようで、一時うらやましくもあった。
現に二十代の頃はそこにあこがれ、真似て動き続けることで、自分を満足させるように仕向けていたように思う。
そんなごっこ遊びが誤りだと突き付けられたのが、ある俳優訓練の場に参加するようになってからだ。
そこでは自分がいかに嘘を付いてきたかをこんこんと指摘され、どんなに身体の声に耳を貸さなかったかを、教え込まれた。
3年ほど通ったのち、ようやく身体が語っていることに気が付いてきた。
自分の身体はとてもわがままなものだった。でもそれは、ただ自然に反応しているだけなのだ。負荷がかかれば悲鳴を上げる。気持ちよければゆるむ。当然のことだ。
そういうことを黙殺し、おのれの気持ち良さ、自意識のために身体を使っていたら、無視し続けたら、そのうち声を上げなくなるのは当たり前なのだ。
今の身体は語ってくれる。少しは自分にもその声が聞こえるようになった。
具合の悪さに振り回され過ぎな気もするけど、未熟な自分ではそれを黙殺していたら演技なんて出来ない。また嘘で塗り固めることになってしまう。
でもきっと、世の中のハードワークでも素晴らしい作品を作り続ける人たちのように、身体の声も聞いて、しかしストイックにコントロールもしてという方法もあるのだろう。
40歳まであと数年と迫った今、ありがたいことに多忙な毎日がある。
これは、そのトップランナーたちの身体との向き合い方に近づけるように努めることのできるチャンスかもしれない。
今度は真似事ではない。
唯一無二の自分の身体の声を黙殺せず、耳を傾けて、そのコントロールの仕方を模索していく。
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